つきみのブログ

帰国子女で理系。正解ではなく、読者が考える材料を提供したいです。

“パクり”か“輸出”か?~K-POP化する日本のアイドル~

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オーディションの運営にはPRODUCEを産み出したCJ ENMが関与している以上、CJ ENMはそれ相応の権利を保有している筈であるため『パクり』とは言えないと私は考える。これは韓国から日本への文化の輸入であり、日本人として、韓国には誇りを持って欲しいと思っている。

また、JO1が日本人によって日本語の歌が歌われているがスタイルがK-POPであることで、それがK-POPであるか否かを決定する必要性を全く感じない。
デビュー曲とダンスを韓国人が担当したことについて、その権利報酬はその担当者にあるはずである。

この企画を否定する意見は、まるで利益を全て日本企業が独り占めしたかのような言い分である。

権利そのものは、国に関わらずそれぞれの企業や個人が保有するところであり、その上でこのコラボレーションが成立したと言える。

何もかも国単位で主張するのは、如何にも社会主義的である。日韓共に資本主義国家のはずである。

商業における法律の専門家の解説が求められる。



つきみ

夫婦関係について

自分が女だから女目線で男に求めることしか言えないんだけど、

夫婦で奥さんがずっと喋ってて旦那さんがうんざりしてるみたいなの、結局必要なのは『客観的に考える力』と『問題解決能力』なんだよな。

女性は話すのが好きで、共感や慰めを求めているというのはこんなにいろんなところで言われている訳だから、そのままやれば良いわけで、

それに納得がいかないならそれは女の人が苦手な傾向にあると判断して(そんなことないという人、それは性欲オンリーなのでは)結婚しない方が楽だと自覚して欲しいな。

他の女性に癒しを求めるというのも思考をサボり過ぎ。奥さんとも付き合っていた期間があって結婚しようと決断した訳で、
そのときは気にならなかったということは、その他の女性だって奥さんと同じである可能性が高い。その状態で、例えその女性と結婚するつもりはないとしても、以前から支え合ってきた奥さんを裏切る行為を行うのは何の意味もなくただ大切な人を傷つけ、魅力的な人の人生を棒にふり、自分は何もかも失う。
それに気づけないで、ただただ「妻がストレスだ。」「浮気される女が悪い。」「女はワガママだ。」と文句を言いながら年を取って不機嫌な態度で余生を送る人々は思考をサボり過ぎている。

ここまでが『客観的に考える力』だ。


次に『問題解決能力』だが、
女の私の提案はこうである。

まず、愚痴や雑談マシンガンをする時間と場所を決める。
時間内に収めるために、話す前にまず紙に書いてみる。
するとまとまりがあって聞きやすいし、話す方は時間をコントロールしやすい、そして紙に書くことによって気持ちをすっきりさせる効果もある。
途中で時間になってしまったら中断する。メモがあるのでまた次回途中から始めることが出来る。

もし、そんなことすらしている時間と労力が無いなら、
こんなこと以前に今夫婦生活を送っていることに疑問をもつ必要があると思う。
相手を思いやれず自分の苦痛ばかりが気になるような、相手への気持ちの少なさ、人を裏切らないとやっていけない程に苦痛を感じる働き方や生き方を先に見直す必要がありそうだ。



このことに限らず、自分のこれまでの行動や判断を省みず、解決策を考えず他人のせいにして目先の快楽に走る人間に自由が保証されるのは如何なものだろうか。


つきみ

人を助けた人は『偉い』のか

人助けは難しい


『人助けをしましょう』
『人を助けると気持ちがいい』
『人の為にすることが自分のためになる』

こんなのはきっと、あまりに自己中心的な人であふれた世界に危険を感じてなにがなんでも変えてやろうとした結果思い付いた言葉で


本来こんなのは助けられた人にはいい迷惑で


助ける方というのはそれだけの余裕があって初めて出来るのであり、だからこそ助けた人はそのことに特別感を持たせて外に主張したらそれはもう人助けではない、自分本意なのだ

助けてもらったほうは、たしかに感謝はいるが、助けてもらった相手を『偉い人』とすることは果たしていかがなのか。

助けてもらうということは何かに苦しんでいて

どうなるか分からない不安や恐怖にあがいていたり

人を頼らなくてはいけない状況には勇気が必要で

だから、『助けてもらった人』を、完全なる『受け手』にしていいのだろうか。

助けてもらった人は、
よく頑張った、偉い

のである


それを理解している『助っ人』でありたい。

自己紹介の一部

資格をとった方がいい

そんな言葉が頭の片隅にあって
いざ調べたり本屋を物色していると

ふいに
覚えることより探究こそが大学生としてあるべき姿
読むべきものは他にたくさんある
肩書きに頼るなんてナンセンス

なんて思いながらその思考は自分が大学生であるとか理系であるとかそういう肩書きが根本にあることに気付いて
その矛盾に失望して

何もする気力もなく

自分のしていることか、希望にそぐわないのかそれとも何をするにも動きが鈍くなったのか

自分の望みはなんなのか
というか望みってなんなのか
望みなんてものが存在しうるのか

それでも目の前にある何かを見つめなきゃいけないはずなんだけど


ある日私の体は起き上がらなくなって
水を飲むことさえ難しかった



今でもすべてに自信がないから

気まぐれな暇潰しで精一杯

予定作るのが苦しい

日本でLGBTの活動があるのって正直どうなの?

LGBTQの生きづらさとは何だろうか。

偏見、異性愛が当たり前かのような表現、法律…
当事者ではないので、想像でしかない。




……当事者ではない?
かどうかかはよく分からない。

今後、私は同性と恋愛するのか異性と恋愛するのか、そもそも恋愛をするのかどうか分からないからだ。
恋愛対象の性別が決まっている、というのがマジョリティーなのだろうか。





本題に行こう。
LGBTQの生きづらさ。
何故、レインボープライドの活動があるのだろうか。

キリスト教では、アダムとイブのことがあるなど、宗教的にもセクシャルマイノリティは風当たりが強いことが考えられる。
それに対し日本には伝統的に同性愛の文化がある。
戦国時代には戦地に女性を連れていくことが出来ないため美男が派遣されることがあった。
平安時代から「男色」と呼ばれる、現在でいうBLがあった(これを差別的とするかどうかはここでは考えない)。
日本神話においても、イザナギイザナミが登場するが日本人の異性愛者及びセクシャルマイノリティを生きづらくしている存在は、この日本神話に基づいて考えているのだろうか?

実際にこの話題で挙がるのは、「子供を生むという生産性」についてである。実際、日本では同性愛者だけでなく、結婚しない、子供を産まない、子供を産めない人々が未だ生きづらさを感じている。しかしこれは日本限った話ではない。


以上のことから、日本はセクシャルマイノリティを理解する歴史的文化がある。
にも関わらずLGBTQの生きづらい社会が存在する。

つまり、日本におけるLGBTQの生きづらさは
・みんなと同じであるべきという慣習
・未だ残る男女の役割の固定観念

が基となっていると思った。


他の要因があれば是非参考にしたい。

目に見えるものと見えないもの

『あなたは、目に見えるものと見えないもの、何を信じますか。』



『あなたは、目に見えるものと見えないもの、どちらを扱っていますか。』



『あなたは、目に見えるものと見えないもの、どちらに興味がありますか。』



こういった質問に答えようとする際、この『目に見えるもの』と『目に見えないもの』で具体的に想像するものは、種族が違ってくるのは私だけだろうか。



ここでは、『目に見えないもの』の定義に焦点を当てている。
具体的には

・実世界に存在しない、人間の想像によるもの

・小さ過ぎたり遠すぎて肉眼で観測できないもの

・見た目では区別ができず、物理、化学的な反応や解析によって判断するもの


以上が挙げられる。


またこういうものについて、
どの意味で話しているかを言葉から確実に特定できる質問をするのが『理系的』

その質問の文言だけでは特定できないが、話の流れや話し手聞き手の立場、会話をしている状況から組みとる会話をするのが『文系的』

という印象を持ってしまう。




このように二分するの、嫌いですか。



つきみ

私と似ている父親


私と父親は見た目が全く似ていない。

コンビニの店員と雑談しているとき、「養子でしょ」(この国では養子はよくあること)と言われたほどだ。

「一緒にいるとパパ活と間違われそう」と母からからかわれる。



そんな私と父親は、性格が似ている、とお互いに思っている。



今年の冬に発達障害グレーゾーンの診断を受けて、それなら父もなのでは?と思った。

いや、それより前から、よく家族での会話が噛み合わないときは多く、『アスペ』と呼んでいた(私も呼ばれていた)。


そんな父は、特別不自由した経験があるわけでは無いようだ。
働き方も、いわゆる昭和スタイルの発達障害者が苦手とするようなものだ。しかし父は、むしろ一般的によく聞く嘆きや疲労感、ストレスが表に出ず
「仕事で疲れてるんだ」といって家族を無視したり
「俺は外で働いているんだ」と威張ることをしない


その理由を考えてみた。


・いろいろ考えず、『こういうもの』として淡々と受け入れる性格

・男であることもあり、女性特有の『共感の強要』『執拗な集団行動』が求められず仲間外れやいじめられた経験がない(嫌味を言われても気付かない?)

・優秀で、勉強が得意な上に働きながら何歳になっても続けられる



このようなことから、仕事上の人間関係のストレスをもたずよい仕事を得ることができているのだと思う。

私がくよくよしているときに見抜いて「うちの家系には多い」とアドバイスをくれることから、楽観的思考は後から身に付けたのかもしれない。


このような父の例は、発達障害の要素がむしろ昭和的働き方に、定型発達の人よりもよく適合しているといえる。




発達障害にもさまざまである。
たくさんの例や要素をみていると、結局は自分個人を見つめて生き方を見つけていくということに収束する。


発達障害にはこれが向いている』というものはあくまで考えるためのエッセンスであり、本当の意味でそういったものは存在しない。


新しい働き方を考えるのもあくまでその一つ。

自分が何を求めているのか、
何が辛いのか、
何が自分を助けてくれるのか、


失敗を淡々と受け入れながら見つけていくんだと思う。



つきみ